肩が落ちる

スティールへッドを釣りに来ている。このことがどれだけ貴重で容易でないことか、会社員としての普段の時間を振り返ってみる。今、身の回りで起こっていることを一つ、二つと数えてみる。

パソコンに向かってばかりで情報整理・情報活用が生きるすべかと思いたくなるような日常である。何かを買うための、それとも何かに金を払うための時間ばかりが占めていると思えてくる。でも、川を前に痛烈にわからされることは「フライでスティールヘッドを仕留める」のは金では買えないということ。来たんだから釣れるなんて思ってはいけない。

年年歳歳汚れがシミのように広がっているのは自分の体のみならず、自分の国のみならず、ここブリティッシュコロンビアの北も、われわれ人間による侵攻、侵食が後退することはないようである。空から見ると森は何ピースもが欠けたパズルであり、伐採の頻度と巨大さは衰えをみせない。魚の遡上グラフはいつも下降線を描き、周辺住民は仕事がないと減退を訴え、町の人口流出は進行中というのだが、釣り人とその周辺のトラブルは反比例に増殖・頻発が続く。

この年は連日魚の気配が少なかった。スティールヘッドは容易ではないと口にしつつ釣れない時の覚悟を自分に叩き込むのだけれど、すべての期待を絶対に排除できないのが釣り人、希望があるから海を越えてやってくるのである。

気配を感知すべく朝から晩まで竿を振りっぱなし。フライを流してはまた振込み、流し終えてまたフライを送り込む。「今度こそ・・・」「そら来い!」「なぜ?」「どうして?」「これか?」「あれか・・・・」「いや!」「やっぱり・・・・」上半身は雪をかぶった山から吹き降ろす風に絡まれ、下半身は深山が放出する峻烈の水が集まった氷寒に洗われっぱなし。そんな中で知恵を紡ぎ、期待は続けられる。

なぜか。

本物のスティールヘッドを以前に見てしまったのだ。

河原に敷き詰められた丸石は、止まない雨のせいで艶を放ち、そこを歩いてスティールヘッドがきっといるであろう流れに向かい、ゴールデンイエローの紅葉残る森に囲まれ、スノーキャップの山を向こうに眺めつつフライを流す。違う世界からの信号ともいいたい魚特有の“魚信”を、不意に、そしてついに感知して、竿を立て、疾走と躍動を目のあたりにし、怒号と持久に耐え、足元に横たわった無類の手ごたえを知ってしまったのだ。1メートルに近い大きさの、意志をもったスティールヘッドに目を合わせてしまったのだ。

スティールヘッド専用というフライがあり、本が書かれ、多くの釣り人が対象魚の筆頭にランクし、文学になり、名前を冠した釣道具のメーカーも現れ、名前を借りた商品も数知れず。釣り人にそれだけの創造、想像、夢想、意欲を沸きたてさせるプロポーション、生態、性格、生息環境、暴れっぷり、走りっぷりなのある。

さて、今あなたはきっと、名だたるスティールヘッド・リバーの近くでキャンプを張っていることと思う。寝袋にもぐりこんで、今日釣れなかったことを考えているかもしれない。あるいはロッジで夕食を済ませた後、コーヒーを前に静かに明日の釣りを考えているかもしれない。釣ったことがある上で、もう十分承知のはず。そう簡単に釣れないことを。肩を落とすことはないさ。