拾う

スーパーの袋、弁当の食べ残し、飲み終わったドリンクのパック類、傘、漫画数十冊、週刊誌一束、新聞紙一束、エロ本、コンドーム、壊れた自転車、タイヤ、玉網、履き古しのジーンズ、Tシャツ、各色の空缶、各種ビニール袋、各種ペットボトル。

これらが我が家の前を流れる早淵川の水の中で、あるいは川岸で目撃されるゴミたちである。しかも、わずか自宅から駅までの通勤経路の範囲でである。どういう精神状態か窺い知れないが、中には家庭のゴミ一袋を投棄して行く者もいる。もうこうなってはタメ息しか出ない。

一方で、最近は浄化設備が整ってきているせいか、水色はなかなか透明である。いくら汚濁に強い連中とはいえ、キャストの練習で水辺に降りて行くと、鯉、ボラ、石亀、何かの種類の蟹まで見ることができるのはちょっとしたものだと思う。鳥達もそのことを知ってか、両岸が完璧にコンクリートで護岸されたこの川でもカモはよく飛来するし、白鷺や灰色鷺も小魚を追廻しに良くやってくるし、時々かわせみが川面を走り、稀にオシドリまで一休みに立ち寄って、通行人達の注目を集めてゆく。

ああ、もしこの川がゴミがなく、護岸がされてなかったら・・・カナダの川を思い浮かべて目の前の汚れた自然を毎朝通勤する。

しかしこの違いは一体何なのだろう。年に1回訪れるスキーナ水系ではこんなことにはなっていないのである。同じ地球でありながら。おそらく日本の関東平野は単に人間の集まり具合がヒドく、それゆえモラル以上に不可抗力で人間の手をすり抜けて落ちていくものが多いのではないか。いや、それにしても自転車や雑誌の束は言い訳がつかない。やはりあまりに多く集まった人間の心がこうやって自然につらく当たるのだろうか。

分からない。全くもって分からない。理由もわからずにこの現場をおとなしく受け入れて、そのまま生きていくのが都会に生きる人間の自然な姿なのだろうか。

 

カナダまで来て釣竿片手に彷徨するとき、そんな川を期待するわけがなく、ゴミなんかないのがあたりまえと思っている。キスピオクスはその名が「人知れずの土地」という意味だから、上流を目指すのはフライの釣師かハンターか、あるいは営林署関係かキノコ取りくらいで、指紋が付きにくく、汚物が投下されることも少ない。実際キスピオクスの河原でゴミらしいゴミを見かけたことがない。

ところが、ああ、やっぱり。

スキーナ本流の河原を歩いていると、視界の端にチラと人間の色を発見する。良くあるバドワイザーの缶である。これだけの自然にあれだけの魚を追いかけて、ふと視界に入る超不自然。この異物さかげんに一体どうやって目を逸らせばいいのか分からず、一方で日本の日常でそれを受け入れている自分がその不自然をそのままやり過ごそうとする。

人間が立ち入ったとたんに自然が汚される可能性がスタートし、人が多く立ち入るようになればいよいよ確率が増す。スキーナは上流にいくつかの町があり、サーモンを狙うミーとフィッシャーマンもひっきりなしである。いや、そんなことはどうでもいい。このスティールヘッドの川で沸き起こった人間としての道義的慙愧の念は、もはや救うべくもない自宅前の早淵川の日常とは同じではないのだった。

自分がちょっと腰をかがめて手を伸ばし、冷たい雨に打たれた空缶を1つ拾えば、一点の汚れを消し去ることができるかもしれないし、家に持ち帰ってなお心の中を流れるこの川を救うことができるかもしれない。そうであれば、1つ、その異物を拾うことに何の躊躇いがあるだろう。

 

秋、スキーナカントリーは金色の輝きを放ち始める木々で果てしなく埋め尽くされ、谷を流れる深い緑はどこまでも流れ続けるようである。森に立ち入ろうとも、河原を彷徨おうとも、まず、どこにも人間による汚点らしきものは見つけるのが難しい自然である。この流れが日本に戻っても自分の中を自然のままに流れ続けてほしい。

この旅で、自分は空缶を2つ拾った。