最後の遊びに

Steelhead Kispiox

“スティールヘッド”と“釣り”の間にある死について話をしよう。

綺麗な水の中に見事な魚を見ればフライを投じたくなり、竿を立てたくなり、引きを感じたくてうずうずするのが釣人である。魚を傷つけ痛めつけている事実があっても、釣人は魚を掛けて取り込むことに無類の喜びを感じているから、ちょっとやそっとでそれをやめることは出来ない。そして手にした魚を誇り、感嘆し、賞賛して、再び釣りたいがために魚をまた流れに戻すのである。

人間が地球における癌の最たる存在であることはどうにもならないと思うしかないのだけれど、その癌の一種である釣師は魚を釣り続けたいという果てない欲のために、いかにして自然を保護しようかと真摯に考える。もしあなたが同じく釣人であるならば、そしてスティールヘッド・サーモンを釣ろうとする一人であるならば、その願いを切らさないためにこれからの話にちょっと耳を貸していただけないだろうか。

 

かつてキャッチ&リリースなる概念がなかったヨーロッパや北米の釣に関する記事を読んでいると、魚を釣ることを「Kill」といっている。「今日10匹釣った」という場合「I killed 10 today.」となる。釣りはイコール「殺し」であったのだ。それが深刻な遡上の減退とともに、釣人は釣った魚を水に戻すようになり、釣り自体を楽しむようになって「I caught 10 today.」となってきた。

しかし、魚を逃がしたとしても、依然として命のやり取りがそこにはあり、釣った魚をリリースして「ありがとう!」と言おうが「やった!」と叫ぼうが、あるいは「ゴメン」と言ったとしても、掛けた魚の数パーセントは必ず死に至るものである。スティールヘッドの場合、4000匹キャッチ&リリースが丁寧になされたとしても144匹は死ぬことになる。ただし、この死亡率は掛けられてない魚の死亡率よりほんのわずか多いだけということがデータで証明されているらしく、ここ、ブリティッシュコロンビアではリリースによる保全の有効性を認識してスティールヘッドに対しては100%キャッチ&リリースすることが「ルール」になっている。

けれど、キャッチ&リリースをしたとしても、釣り方によって死亡率が飛躍的に大きくなったり、ほとんど死亡しなかったりと大きな違いが出ることがある調査によって浮かび上がってきた。

 

約20年前、カナダでスティールヘッドの死亡率調査が実施される。調査する川を十数選び、河口で何匹のスティールヘッドが遡上するかをカウントし、その後川に入ってから餌釣り、ルアー・フライ釣りを実施し、それぞれの方法で“かえしのあるフック”と“かえしのないフック”で釣りをした。釣られた魚には釣られた方法がわかるようにタグを打って指標し、すばやく水に戻した後で川筋、特に産卵床付近を調査して死亡した魚をカウントし続けた。死亡した魚のカウントがすすんでいくと、次第に釣られ方によって死亡する確立に大きな差が出てくることが明らかになってくる。

 

①餌と擬餌針(ルアーやフライ)の釣りを比べると、死亡する確立は餌釣りの場合のほうが約1.5倍高かった。

②バーブアリとバーブレスとでははっきりと明暗が分かれ、かえしのあるバーブドフックで釣った魚の死亡率はバーブレスフックで釣った場合の2.5倍以上になった。

 

なるほど、フライ専用区間で守られたり、バーブレスフックが絶対のルールになってきたことがうなずける。さらに、死亡の主な原因を探っていくうちに「出血の具合」が死亡率に関わるメインリーズンであることまで調べがついてきた。

 

A)出血がまったくない場合、死亡は確認されなかった。

B)わずかににじむ出血の場合、死亡率は2%であった。

C)明らかな出血が確認された場合では53%、つまり半分以上の確率で死んでいた。

 

これは一体どういうことなのか。

つまり、餌にはより深く食いつくために、傷がつきやすいということであるらしい。そして生餌であろうとフライであろうと、かえしのある針(バーブドフック)の場合、針をはずす際に傷が広がり、深くなり、出血に至りがちであることの証明であるという。さまざまなところでバーブレスフックの魚に対するローインパクトは訴えられているけれど、われわれはどうだろうか。

スティールヘッドを掛け、ファイトし、取り込み、尾を捉えて、そして目を合わせた。その過程全編に行き渡るは一生物としての強い意志、怒り、個性、そして生命力そのものの手応えである。それらは人間となんら変わるものではないように思えてくるのである。その一個性に対して敬意を払うことはスティールヘッドに魅せられた釣人にはごく自然のこととなり、スティールヘッダーの自然体で凛々しい姿がスティールヘッドリバーでしばしば見られる。そうなりたい。そうでありたい。

先に書いたように、釣りは命のやり取りそのものである。そこには律儀で真摯な自然体で臨みたい。反則なし、甘えなし、そしてためらいなしの遊びである。