気づく

毎朝1時間、電車で通勤を繰り返しているのだけれど、最近つくづく思わされることがある。人間の行動とスティールヘッドの行動の共通点について、である。

たとえば階段やエスカレータの登り口や降り口、こんな変化で人は必ず歩を緩め、鈍くなり、あるいは一呼吸おいたりして、なんとなく滞る。エスカレータに乗るのになにをそんなにと思うのだが、ここでいったんためらうように見えるし、階段を上りきったらさっさと先に歩いてほしいのに、ゆっくり一息ついて余裕をかますのである。正直邪魔で仕方ない。ところがある日、これらの人の様子が瀬を前にした魚が遡上を緩めて溜まり、瀬を遡りきったスティールヘッドがテールアウトで一休みするのにダブりはじめてしまったのである。

釣師ならヘッドウォータとテールウォータが魚の付き場であり釣りのプライムスポットであることは経験や情報から知ったりするものだけれど、“なぜ”を普段の生活から気がついたり理解しようという人は少ないんじゃないかと想像するけれど、どうでしょうか?

人間観察と自分の経験から「フライを流すなら、接触を試みるなら。ヘッド&テールだ。とりわけテールだ、スティールヘッドは。」

Steelhead Kispiox Meiser Spey Rod

ではそのテールからヘッドの間、途中の流れ、かつて雑誌で見たあの写真のようなシーンはどうだろうか。これも良く考えてみたい。目的地があって、その途中何もない道を通るのであれば、皆さんはそこを“ただ通過する”だけのはずである。

スティールヘッドには目指す上流があり、産卵という目的が明確。出社する途中、産卵に向かう遡上の途中、変化のない通りはただ“通過する”しかないはずである。だからどんなに見た目がフライ向きの流れであろうとも、変化がない限りはまず通過しかしないはずで、その場所でフライと魚がすれ違う確率は低すぎるのである。

その通路のような流れで目に見えて注意しなければいけないところは、途中に一休みしたい木陰というか、茶店というか、毎朝立ち寄るコンビニといおうか、そういう変化があるかどうかになってくる。水面に突き出た大石は“通過”ではなく、“いったん休止の場所”になる可能性があると想像する。ヘッドとテールほどの大場所、たむろする場所ではないけれど、小さい変化も見逃せない。

とても難しいのは、一見ただの通路と見えている流れでも、一部深くなっていたりする場所があれば、そこには落ち込みと駆け上がりが存在することになり、いわゆる小さなヘッドとテールが流れの下にある感じになるはず。

通りに建っているビルの地下に隠れて存在するバーのように、昼間の目で見ても発見できないかもしれない変化を探すには、徘徊し、いったんははるか先に終わりが見えるストレッチを端から端まで流すことになる。けれど数回トライすれば、WhereもHowもかなり絞ることができるだろうし、その後は見切りをつけて集中力を持って釣りをするほうが楽しいはず。なにせまともにやったら3-4時間は1つの場所、ひとつのランで終わってしまう。移動を含め、これだと1日2箇所で釣りが終わってしまうことになる。別に悪くはないのだけれど、良い場所は2回流したいこともあるし、この簡単ではない釣りにもうちょっとチャンスがほしいのである。

だから、かつて雑誌で読んだ広大なランに延々とロングキャストを繰り返して釣りを続けるだけが目指すスタイルではなくなってきた。もしそれを毎度続けるのなら釣師というよりは投師の趣き。やっぱり自分は少しでも魚を掛ける釣りがしたいのでファイトして何ぼ。あの緊張、あの瞬間、あの不安、あの興奮を味わいたいのです。

変化の乏しい、美しい流れで糸を伸ばすのも楽しい。無駄を無駄と思わずにやることも何かを得るには必要で、仕事でも釣りでも結果主義の悪魔に取り付かれると遊びがなくなる感じもある。けれど、結果が出ないとこれまた面白くないものである。仕事も釣りも。