これも人生か。

つい先ほどまで南半球、南緯40度のところにいて、河原で寝そべって夏の日差しのなかで冷風を受けつつ鱒のライズを待っていた自分は、いまや一目散に帰途に付こうと高速バスの中である。

つい先ほどまでジンクリアの水中に魚の挙動を観て楽しんでいたというのに、はや数千キロの距離を隔てている。そして明日にはオフィスで幾人もの人間とくんずほぐれつのコミュニケーションに突入する。

しかし、そうはなったとしても、自分の過ごしたニュージーランドでの時間は失われることなく、一人で河原をさまよった時間は幾度となく思い出されそうである。竿を絞って見事な跳躍を見せて闘ったブラウンの威厳もまた、あるとき何度でも頭の中に繰り返されることと思う。この旅は価値があった。

 

今回、思いがけず仕事でオーストラリアに行くことになって、仕事と言い聞かせつつも、ついにあの南半球へ行けるのだから、考えるなというのが難しい。フレイザーアイランドのトレバリ、タスマニアのブラウン、ウェイパのキングあるいはパーミット、そしてニュージーランドの鱒達。矢次はやに選択のカードが頭の中に差し込まれてくるのだけれど、仕事のついでに寄る程度、という身をわきまえなければいけないのであって、ここが今回の釣りの規律である。

でも。

海は?フレイザーアイランドで一人でリゾートするほど“人間”の余裕はないし、ウェイパのコーストを走って、一から、しかも陸からのソルトウォータを開拓しようと考えると途方もない。

であれば淡水で行こうか。

タスマニアは昔ほど話を聞かないし、かといってせっかく行くのにシドニー周辺でお茶を濁すのもどうだろう?となるとどうだ、ニュージーランドじゃないのか、己が行くべきは?

とはいっても、アラスカのキングやシルバー、BCのスティールヘッドに比べるとダウンサイジングと感ずる。果たして本当のところいくべきなのか、ニュージーランドは。

でも。

昨年末は休みを削って仕事に励んだし、いくつものプロジェクトを同時並行でハンドリングしてきている。最懸念事項は何とか昨年で乗り切ってメドを立てた。これだけ複合情報に揉まれて、脳も体も疲れているというか、張っているというか。人生に必要な3大要素のうちの“仕事”は存分にやっているのだから、もう一つの“レクリエーション”を行う時間が必要なんじゃないか。そして、1週間をいただいてどうして罪になろうか?そして3大要素の最後、“休息”をかねるべきではないか、今の自分は。。。

こうして、感謝しつつ、NZへと羅針盤は示すことになるのだった。

真夏の日差しの中、空港に降り立って、車を発進させるや、日本で想像していた旅の雰囲気そのままにニュージーランドの景色は平和が続いた。旅は急ぐ必要がない。急ぎようがない。

フライフィッシングもまさにそんな感じであった。

ここで鱒釣りをいていると、いったい自分が今までに日本で行っていたフライフィッシングは何なのかと思えてくる。バタバタと渓流を歩いてフライをスポットに叩き込み、出てくる岩魚は1日数匹、しかも手のひらサイズだったりする。10回のうち8回くらいこんなじゃないだろうか?

けれどNZでは、フライをキャストする川の規模は日本の川と変わらないのに、川の力そのものの違いなのか、魚の数、大きさ、おおらかさが別世界なのである。

のんびり川を歩いて鱒を探し、見つかる魚はまずほとんどの場合で30cmを超えていて、フライラインをのびのびと伸ばしてのアプローチが楽しいし、鱒がいそうな流れにはきっとその姿の一つや二つが見え隠れし、瀬に移動するものや、あるいは淵の底にじっと待って餌を取る姿を、毎日どこかで見ることができ、川の自然と呼応する姿がありありと伝わってくるのである。

日本を無碍にするつもりもなく、また、どうでもいいとなんて思っていやしない。外の世界を見て知って、初めてリアルに見えてくることがあるのは別に釣りの世界だけではないけれど、こと自然がかかわる物事に関しては違いがありすぎてヒドイのである。

いったいどうすればいいというのか。

日本で渓流釣りをして見えなかった10年は、自分の若さのせいか、あるいは自然のせいか。開高健は「自然に出ていろいろ見えてくるようになるのは35を過ぎたくらいからじゃないかしら」といっていたけれど。

今でもニュージーランドの釣りは自分の手の中に残っている。今にして初めてトラウトのフライフィッシングの何たるかを感じたという気がする。自分の日本でのフライフィッシングもちょっと変わるかもしれない。