学生の頃は森林工学科を専攻して砂防ダム研究室に入りました。皆が治山治水の研究のために集まっている中、それによるネガティブなインパクトをテーマに選んで、教授にはちょっと冷たいコメントをもらったのを覚えています。”工事が与える影響は河床に一番表れる”と別の学部の教授からアドバイスをいただき、それなら指標はカジカだということで、特別に作ってもらった箱メガネで大学付近の川に入っては石の影をくまなく探して歩きました。

 

すでに絶滅したように言われていたのですが、カジカが好むであろう流れが残っていれば、実は意外と生きていることがわかりました。(昭和63年から平成4年頃の話です。)好むところと全く住んでいないところの河床や流速を確認しつつ、途中から捕獲したカジカを家の水槽で飼い始めました。ある時今までに見たことがないようなババカジカと呼ばれる大物を捕獲することに成功しました。砂防ダムを作ることを研究してきた教授にとって逆チャージのような私の研究テーマには乗り気でない様子でしたが、そんな教授自身も子供のころ駆け回った野山小川が変わっているのを憂いつつだったのでしょう、ある日私がアパートでカジカを飼っていることを知らせると「それはカジカ蛙の間違えだろう?いるはずがない」と言いつつ飛んで尋ねてきて「本当にカジカだ、こんな大きいのまでまだいたのか!」と驚き喜んでいたのを覚えています。その研究テーマは私が卒業後も10数年(あるいは今も?)続いた研究のようです。

スキーナ フライフィッシング

日本で川に出ると無意味に思える、もう役目を果たし終わったかのような堰堤に連続して出会うことが多いし、人の生活を守るための護岸や砂防ダムがどうみても人が住んでいない地域の海に流れ出る川や山奥の川にコレデモカと打ち込まれていてショックを受けます。政治や経済のために物言わぬ自然が犠牲になっているように見えて、20代は心を傷めるばかりでした。本来その流れを伝って行き来する生命たちの行く手を阻み、川そのものの首根っこをつかんで絞っておいて、その時ばかりの金に縛られて、その後はほったらかしであるかのようにしか見えません。そういった人工物がなかった時代は、行き来する魚達は海の豊穣にあやかって河では育ちようのない力強さを身につけて帰ってくる可能性があったはずなのに、日本でそういう、以前は普通にあっただろう生態系を期待するのがバカバカしくなってくるほど、河に出るたびうんざりさせられてきました。さらに私が釣りをしていた長野新潟で釣れる魚は漁協が毎年放流したものであることがほとんどですし、釣り抜かれて減っては供給される魚たちでした。これのどこに自然があるのだろう、そう思わずにいられませんでした。

 

そこでアラスカ、カナダに出掛けて約6ヶ月をかけて歩いてみたのですが、そこには探していた、本で読んだり映像で見た自然があって、納得感が半端ありませんでした。海に一度降りて筋肉を纏い、銀箔に包まれた魚たちには驚くばかりでした。これぞ、という本来の姿を釣りをすることで見て触れて、自分が確認したかった自然を目の当たりにすることがやっとできたのです。

全種のサーモンを釣った後、ベタ底の釣り方とは違う、よりフライフィッシングらしい、様々なアプローチが許される魚に傾いていくことになります。湖の巨大なトラウトも十分すごそうだけれど、海に一度降りて、生まれた流れに戻ってくる魚であることに無類の価値を感じます。生まれた上流から降りていく流れ、巡り巡って育つ海洋、そして再び川に戻ってくるという、人間では想像が難しい旅を経てきた1匹の魚に凝縮された、広大無辺の自然がなせるものを感じることができるのです。サーモン/スティールヘッドを釣るということはこういうことに触れることであり、途方もない想像を掻き立てられるものです。そしてフライフィッシングの誘いに乗ってくる性格だとすると、私にとってこれはもう他に比較しようのない絶対的な存在になってきます。大きい魚を釣ること、というよりは、地球の生態系を内包した命を確認することとも言いたくなります。だから私には遡上魚であるスティールヘッドを釣りに行くことに他には得ようのない意義があるのです。

スティールヘッド Steelhead スウィートグラス バンブーロッド Bamboo Rod Sweetgrass

ダムでせき止められた息苦しい川ではなく、湖でもなく、また海でもない。竿を片手にスティールヘッドが帰ってくる川岸に降りてゆくと色々感じることがあります。川岸を歩き水辺に立ち、実際に流れに入ってゆくと、昨年との変化、数年前との変化に気付き始めます。フライを泳がせて魚に訊きにかかればもっと多くのことを感じないでいられません。

 

以前は魚を釣るために観察していましたが、それは徐々に変化してきました。また以前はリリースしようが魚を痛めつけている、自然を傷つけているかのような感覚があったりもしました。釣り人は他のアウトドアスポーツをする人達とは違うならず者なのだと。一方大昔から釣りは罪のない遊びとも言われてきています!?直接命に触れつつ、川とその自然度合いを最も深く感じるのは釣り人ならではかもしれません。川やその生態に現れることをいち早く、最も身近に感じるのはアングラーではないか。川の近くに住んでいる人ではなく釣りを実際にする人の方がずっと、もっと感じているはずです。今後も釣り人たちは私設レンジャーとして、川岸のホームズならんと鋭く観察し、時に声を上げて行きたいですね。