Respect

スティールヘッドが帰ってくる川のそばでキャンプをしていると、闇の中でザワザワとヤブを掻き分ける音がする。黒熊である。気がつくとキャンプ場と森の境からこちらの様子をうかがっていたり、ある朝テントの横に座っている大胆も見せる。ばったり熊に出会ったときに取るべき行動を釣友ウォリーに再三再度聞くのだけれど、こうすれば助かるという決め手が見えてこない。そしてついに言うことに、「もっとも重要なのはRespectだ」ときた。

敬意を払う。なるほど、尊敬する人の前で人はどういう行動を取るだろうか。死んだふりはしないはずである。ニラミはきかせないはずである。オタオタしないはずである。

自然の中の野生動物は格別で、森の中から現れる黒熊は艶を放っていて美しく、その風格にみとれないではいられないリスペクトの対象なのである。

スティールヘッドもまさにそういう存在の一つ。

ある小説で自然や自然の現象をうっかり擬人化してはいけないという戒めがあった。以来、注意を払ってきたつもりであるけれど、ある年の10月、逃げられたスティールヘッドのことを繰り返し思い返しているうちに、覚えず人間とスティールヘッドがダブってくるようになったきた。

メスのスティールヘッドの闘争がオスのそれよりはるかに激しく派手であることは定説になっている。針がかかったとたん釣り人とは反対に向かう激走。突然のヒステリーとも見える連続するジャンプ。捕まえた手をふりほどこうとするテールウォークやヘッドシェイク。引き寄せようとすればするほど向こうに逃げていこうとする絶対的抵抗が竿にありありと伝わってくる。さらに強引に寄せようとすれば抵抗が憤怒に移り変わり、力ずくで止めたとしても決して顔はこちらに向けようとしない。ある年に掛かったスティールヘッドはまさにこれであった。逃げられた原因はこちらに顔を向かせようと竿を絞りすぎたせいだと思い返すばかりである。

ではどうすればよかったのか。

ちょっと間をおいてみる。つまり竿をしぼり過ぎない。あやしてみる。つまり糸を緩めてみたりする。すると激しい抵抗のあと顔も向けずに居座っていた魚が動き始める。あらためて様子をうかがい始めたかのようである。そこでもう少しのあいだ、距離を保とうと覚悟を決める。するとこちらに寄るそぶりを見せ始める。近づいてみたりまた少し離れようとしたりを繰り返すがしばらく自由にさせておいてみる。こうしてあやし、なだめすかして少しずつ寄せ、最後はそっと手におさめるか、場合によっては強引さを発揮して取り込むほうがスムーズだったりする。15lbを越えるころからメスは手がかかるということを覚えておかなければならない。

一方オスはどうか。

前半戦に水面を割って姿を見せることは少なく、また、派手に走り回ることも少ない。ところが、目に見える抵抗をあまり示さずにじっと我慢しているようでも実は水面下で首を振っていることが多く、あっさり針が外れる瞬間はこんなときである。じりじりとその実力を見せてこちらを不安に陥れようとし、仮に寄って来たとしても、人間の“マ”に入いることは拒み続け、一進一退の対等を常に要求してくる。ラインを通してこちらの実力と度量も推し量ろうというくらい水底から“気”が伝わってくる。キスピオクスで掛けたオスはちょうどこんな感じで、15分経ってもこちらに主導権が渡されることがなかった。ついに姿も見れずに終わったことが悔やまれてならず、ひょっとして30lb近かったんではなかったかといまだに逃がした魚は大きくなるばかりである。

ではどう対峙すればよかったのか。

時間をかけてお互いの力を比べつつ、駆け引きしつつの釣りを覚悟する。35lbのスティールヘッドを4時間のファイトの末に捕らえたという話しをベンチマークに、持久戦を覚悟する。こちらが気が抜けるのを狙い済ましたように首を一振り、針をはずす瞬間を狙っているから、キョトキョトした方針ではだめで、断固として気を抜かず、こちらも対等を主張し、それでいてどういう状況でも対処しますという謙虚と柔軟性をもたなければいけない。あるときはどこまでも川を下ると決意し、あるいはラインを繰り出して向こうに主導権を一時預ける。力の示合いでは喧嘩別れは必至である。終盤の抵抗は激しく、仮に人間の“マ”に入ったとしても最後に一太刀浴びせようとうかがっている。最後まで勝負を要求してくるので手ごわいのである。慌ててはいけない。相手の大きさや強力さから、針が外れても仕方がないことを認め、その時は野生のスティールヘッドが上手であったことを認めるのだ。もし手に収まったら、そのときは運が良かったと思えばいいのである。

そして一貫して、メス、オス両方に対して最後まで「Respect」が必要なのは言うまでもない。